昭和53年2月14日 朝の御理解

御理解第42節
これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。



 生きた信心と、死んだ信心ということが言われる。いつもがこれで良いとは思わない。いつもがこれで済んだとは思わない。いつもそこから本当なものを求めて一心の信心をしていく。そこから次の信心が開発されてくる。
 何か信心をしておって変わったことが起こってきたら、おかげと心得て信心せよというような教えがございますが、信心しておって自分の思うようにならん。思うようにならんどころか反対のことになってくるね。そういう時にどうしておかげが受けられんであろうかと、と言うたらもう信心は止どまっておると、これはまだ信心が足りんのだと思うて、一心を出していけば、そこからおかげが受けられるという、そこからおかげが受けられるという姿勢というものが、いつもできとらなければいけない。
 しっかりお参りもさせて貰った、思うようにならなかった。そしたら信心を辞めてしまう人もある。これはまだ信心が足りんのだと、そこに信心の工夫を凝らすということをせずに、又一心を出すということをせずに、これはもう信心がそれでおしまいとなってしまう。おしまいにならんに致しましても、もう信心が止まっておるというような程度の人が実をいうたら大変多いのじゃないだろうかとこう思うです。
 昨日は、十三日会でしたから、後の研修で大変生き生きとした、皆さんの発表を聞かせて頂いたんですけども、本当に皆さん参加しておった人達一人一人が新たな感銘を受けられたという感じでした。
 昨日ある方が、滅多に十三日会なんかに参りません。今、大変難儀な問題を抱えておられる方でしたが、もう親先生、私は胸につかえて、つかえて、どうにも出来ないことがございましたが、今日十三日会におかげを頂いて、本当におかげの頂けないということが分かりましたと、思うたら胸のつかえが一遍に下りてしまう感じでしたと言うて、帰りがけにお届けをしていかれましたね。
 本当に胸が詰まって、もういつも苦しいことが、ここにつかえておる。それが昨日、十三日会に会わせて頂いて、胸のつかえが下りたというのである。そして成程、私がおかげの受けられないはずだというところが分かったと。そりゃおかげ頂いたねと言うて申しましたこと。
 高芝さん所の遠い親戚になるでしょうかね。岩沢さんですかね。岩沢なんちいよったねあの人。岩沢さん、あの、車をあなたがあげた人。岩沢ちいよったかね。ああ正彦さん。岩沢正彦さんでした。成程信心しておかげを頂く。もうその体験は大変豊富に持っておられる。ところが又難儀な問題が起こった。次から次とね、まあそれによって信心が啓発されれば良いのだけれども、やはり啓発はされない。ただ困ったことが起こってくれば、又お願いに出て来るという信心。それで又おかげは頂く。成程おかげの受けられないはずだ。本当のおかげが受けられないはずだと分かったのは、昨日が始めてね。
 皆さんのいうなら生き生きとした信心を聞かせてもろうて、胸のつかえが下りる程しにおかげを頂いた。だけではなくて、自分のおかげの受けられないということが分かった。もう本当におかげを頂いたねと、昨日はそういうふうには言われませんけど、今日の十三日会でおかげ頂きましたというて帰られた方はいくらもありました。本当にそういうような十三日会でした。ですから、毎朝お参りをさせてもらう、御理解を頂かしてもらう、そしてそこから新たな、さらな信心が生まれてくる。ああここが思い方が違っておったというような。
 昨日、今、ほかの在籍ではない教会に修行にいっとります先生方が六人おります、ここから。その中から、徹美君と誠治君が丁度昨日、丁度十三日会が、共励が始まるという時にたくさん手紙がまいっとりましたその中に、二人の手紙がはいっとりました。
 もう本当にそれこそ、昨日、共励会が始まったばっかりだというのに、一生懸命秋山さんが眠りよんなさいますもん。それで眠気さましにちゃうてから誠治君が、いわゆる息子からきとる手紙を私がやりましたら、もうそれこそ、それこそ水を被ったような気ちゃあのことじゃろうと思うです。もうそれこそ手紙を読まれてからね。息子の手紙を読まれてそれこそ生き生きとしたものが。そしてその後に発表しておられましたが、素晴らしい発表をされました。生き生きしたものというものはそんなに素晴らしい、いうなら効力というかね、効果があるもんですね。そして、その発表がまた本当に皆の胸を打つような発表でした。
 それは本気で教会修行に、何か頂いてこなければならんと言うだけではなくて、もう各自がです、本当に合楽示現活動がそこの教会になされなければならない。合楽の信心を、いうならば大変評判の悪い教会ですからね、いうならば見直してもらわなければならない。自分の信心によって合楽の信心の評価が決まる。そんな思いで皆行っています。ですからもう一生懸命に合楽の信心を、いうなら頭から現して行っておる。
 おかげでやはり話はまずいというですか、まあ幼いというなら、まあ今の二人の信心なんかは、本当に幼いし、幼稚です。そりゃみなさんの信心のほうがどのくらい分かってもおられるし、立派であるか分かりません。幼稚なんですけども、その生き生きとした心で自分の知っておる限りの合楽の信心を語る。その場が与えられておることを大変喜んで、信徒会の最後の締め括りをしてくれとか、毎日ご結界に奉仕させて頂いておると合楽の話を聞かしてくれ、合楽の話を聞かしてくれと言うて、参ってみえる信者さん方がある。先生を始め、どうでもそういう教会ならば信者一同で、ひとつ合楽にお引き寄せを一遍頂きたいというようなふうにまでなっておる。
 徹美君の場合でもやっぱそうであった。まだ僅かな日に、もういうなら徹美先生ファンが何人もできて、寒いからこれをあなたの為に仕立てたと言うて、ネルの襦袢をお供えされたり、又は足袋を履いて下さいというて二足も持ってきて頂いたとか、そして徹美先生、あなたの御取次ぎのおかげでどうにも出来なかった問題がおかげ頂いたというような人達が、たった僅かな何日間の間にファンが出来ていくというような、その内容というものは、信心が幼稚とか、幼いということが関わりはない。神様の生きた働きというものは、幼稚であっても神様に向かう姿勢というものが如何に大事かというようなことを分かって頂くために手紙を、葉書が三通来て、まあ誠治君の手紙を読ませて頂きました。文章もいうならまだ拙い文章ですけれども、その中にもう生き生きとして神様の働きを受けておる。
 私は一心というのは、そういうことだと思うんですね。だから一心を立つるということは、だから一つの新しいと、今までかってなかった、さらな心というものが出ると言うことであるというふうにも頂けるです。一心を出すと一心が生まれるというふうに言うてもいい訳です。だからいくら頑張っとるというてもです、眠かつこらえて朝参りしよるというてもですね、新たな姿勢が生まれてこないとするなら、それは一心じゃないですね。一心というのは心がさらな、ああ成程自分がおかげの頂けないはずが分かったと、胸のいうなら苦しみが一遍に取れたような思いがする。そしてこれからの信心は今までの信心ではいけなかったと、岩沢さんが感じておられるようにです、そういうさらなものが生まれてくることだと思う。
 この御理解は往々にしてあります。どうしておかげが頂かれんじゃろうかと、いうようなおかげが頂けん時にまあいうならば吐く言葉です。だからそういうことを、まあそんなことではおかげが受けられんぞと、これはまだ信心が足らんからというて、一心にそこから一生懸命の信心していけよという実はそのことをここでは言うてあると思うですけれども。
 今日私は、その一心をね、一新していくという信心。それにはね、二人のここの修行生が在籍外の教会に修行に行く時に、そこで得てくるものも、何か頂かねばならんけれども、合楽の信心を自分の体で現そうとしておる姿。もう本当に、例えば信徒会の最後の締め括りを三十分間に渡って話した。そしたら、こげな話はまたと聞かれんというて、テープにとって帰られたね。とにかく徹美君の場合なんかは先生がいつもご結界を開けられるから、殆どご結界は僕が受け持っておるということが度々手紙にある。それこそ合楽で一時間の、いうなら座ることですらきつかったのが、一日御用さして頂いて足の痛みも忘れる程しにただ有難いと言っておる。今日は先生、外は雨ですね。けれども御結界に座って、その雨の音を聞かせて頂いておると、ここに神様のささやきを聞くような思いが致します。生き生きとした心でなければ受け止められない心の状態ね。
 風が吹いても、雨が降っても、その風に神様の働きを感じておる。そういう心を私は一心の信心だと思うです。一心と立てて教会修行に行った。そこにはもう次の一心が生まれておる。その一心の心で修行させて頂くから、教会の受けも良いし、先生も喜ばれるし、御信者も日の内、二遍も三遍も参ってきては合楽の話を聞きたいと言われる。そげん話が出来るとも思われんのだけれども、神様が話させてござる。もう次から次というならお話が出てくる。合楽の話が出来る。止どまることを知らないね。私は今日はそういうふうに聞いて頂いた。
 最後に文男先生がお話をしておりましたが、私はどう言うような時であっても、どういう場合であっても、例えばこの頃から展示会を開きましたが、展示会のどうぞおかげが頂けますようにというて勿論お願いをいたしますけれども、今度の展示会はどういう姿勢でおかげを頂くかと。
 いつも繁雄さんとお話をすることですけども、もうとにかく展示会が始まる前の願いが素晴らしい。その展示会にかけとる填りというものがお届けに現れておる。今度でも梅屋の全部の、私がまあ御初穂からいうならば九倍の売り上げのおかげを頂いとるたいの繁雄さんというてお話したことでした。自分一人でさらってしまっている。
 昨日、秋永先生が文男先生の話を聞いた後に話しておりましたが、文男さんのような生き方、いうならば本当に例えば日々です、この頃からも霊祭をしたことを話しとりましたが、その霊祭、特別にこうと思いを込めるということはないけども、霊祭の前に自分がその姿勢を整えるということを言っておりました。姿勢を作ると日の内に何回も、だからそういう姿勢を問い直さなければならないことがあるわけである。ならお参りさせて頂くでもです、今日はどんな姿勢でお参りをするかということを一番に車の中で考え考えやってくるとこう言う。ただつうっと参ってくるだけじゃないね。それでなら文男のような生き方でおかげを頂く人があるかと思うと、私のように実意のない生き方、私のようにまあいうならばつまらん生き方だけれども、私のようなものでも、それでもこの神様はおかげを下さるという話を秋永先生がしてましたね。
 まあ私は兄弟で二人、本当に同じ兄弟でも、どうしてこんなに違うじゃろかというその生き方の中にです。やはりこちらでは、こちらでの生き方を身に付けておる、ならこちらはこちらでまた、でもおかげが受けられるという話をしてます。いわゆる願いの信心を言っておるわけです。けれどもね、これはどうでも文男さんが生き方でなからなければです、さらなものがいわゆる一心が立たんし、一新することが出来ない。心にさらなものが、いうならば神様のおかげをキャッチする心が生まれない。
 日勝り月勝り年勝りのおかげを頂かなければならない。もうその時その時、例えばおかげは頂いてもそれがただ堂々回りのおかげをおかげと言うておるだけでは、いうならば本当のことじゃないでしょう。
 秋永先生が言うのは、いうならばその時、その時、自分のようなものでも、親鸞上人様の言葉を使うて言ってました。善人でも助かっているのだから悪人はなおさら助かる。確かに天地の親神様という御方は、そういう方なんです。もうそれこそ善人もて、助かるのだから悪人ならばなおさら助かるんだと、天地の親神様のその屑の子ほど可愛いと思し召す御方だということを表現してます。だから文男のような生き方は出来んけれども自分のようなものでもですね、片一方を善人、片一方を悪人というふうに表現するならね、悪人私でも神様はおかげを下さる神様だと言ってます。
 けれどもそれはです、どこまでもおかげは下さるけども堂々回りである。今、合楽で言われる、どうでも日勝り月勝り年勝りのおかげを頂くためにはです、文男さんの生き方でなからなければ日勝りになってこない。月勝りになってこない。ただその時その時に、おかげを受けるというだけではいけない。そこにはその一事一事の中からです、一心を出していかねばならん。そこから一心な、いうならさらな心が生まれてくる。
 そこで今日の御理解にするとね、そういう生き方であると、どうしてこういうことが起こってくるだろうかというようなことが起こっても来ないし、よし起こってきたところで、一心の心でスキッと受け止めることが出来る。自分の胸のつかえが一遍に下りてしまう。そして成程おかげが頂けんはずだということがすぐ分かる、という信心。そういう調子を崩さない限りいうならばおかげはリズムに乗ってやってくる。それが日勝りになり月勝りになり年勝りになっていく。そこのおかげをふんまえてです、この神様の新たかな事、有難い事が分かってくるところからです、代勝りというようなおかげは、これはその後のもの、その次のもの。
 昨日のその若い先生方が二人とも言っておることは、どうでもお徳がほしい、お徳がほしい、お徳を受けなければと言っておるですけどね。お徳がほしい、お徳がほしいと言うてお徳が受けられるもんじゃないです。本当に日勝り月勝り自分の信心の心というものが成長していって、その心で神様に、いよいよ向かわなければ神様の御信用というものはつかんです。
 神様の本当に間違いなさというものをふんまえてから、その先にです。今度は御神徳というのは神様の御信用と言われるのですから、神様に今度は信じられる私、まずは神様を信ずる力というものを、日勝り月勝り年勝りのおかげを受けて神様を信ずる力が出来る。その次に今度は神様から信じられる信心とはということになってきて、代勝りのおかげということになるのですから、合楽の方達の場合はまずね、神様が本当に信じられる、しかも間違いのない、そういう信心を身に付けていくね。
 今日一日をならどういう姿勢で家業の行に取り組むか。そこから心行が必要であることを痛感する。心行そして家業の行。そこに日勝り月勝りのおかげが頂かれてくる。そこに神様のいよいよ間違いなさが分かれば分かる程、こちらもいよいよ間違いがあってはならないというその心が、次の姿勢になってくる。しかもそれは難しいことではない。なら文男さんが信心を見ておってです、そうにゃ難しかろうのとは思われんです。とにかくそれが出来ることが楽しい。
 そりゃ心で感じたり、思うたり、行のうたり、心で行なうことですから、思いが次の行ないに現れてくるのですからわからんですけども。
 文男さんが昨日話しておりました。あるお得意さんがもう私が死んだら誰ん構い手が無かろうちいうて悔やまっしゃった。だから私が金光教の信心でよかなら、祖先讃詞ぐらいならば、私があんたが死だ後で上げてやると言うたと、それをこの人は実行しとるから素晴らしいんです。ただお得意さんというだけなんです。もう一遍約束したことは絶対守っておるということなんです。もうこの人ばっかりは口ばっかりというのとはだだめが違う。私はその生き方で行くというふうに言ってました。
 その方が亡くなられた時に約束しとったげなけん、羽二重の死出の装束ですたいね、白衣をお供えさして頂いた。もう死んじゃるとじゃけんで、大体そげな事せんでよかとじゃんね。誰んしらん。そりばってん親戚の人達が大変感動されたという話を、昨日はしてませんけど前にしてました。そういう生き方なんです。目に見えるところよりも、目に見えないところを大事にしていく。そういう姿勢を日々作っていくというのですから、一心のいわゆる新しいさらな心が生まれてくる。そのさらな心で、なら今日はこの問題をどういう姿勢で受けとめるかと、姿勢を作っていくのですからおかげを頂くはずですね。
 今日はこの四十二節からね、生きた信心と死んだ信心ということを聞いて頂いたね。死んだ信心でもその時ちょっと生きあがってからお願いすればおかげ頂くわけ。まあ死んだというと、死にかかっとるというか、枯れかかっとる信心といったほうが良いでしょう。何かポッと叩かれるとハッと気がついて願うというような生き方の信心じゃなくてね。生きた信心とはいつも絶えず自分の信心姿勢というものを正し正し日々のいうならば御用をです、本当に御用として修行として受けとめて行けれる。これなら間違いなく日勝り月勝りのおかげが受けられるということであります。
 どうしておかげが受けられんだろうかということはもうすでに死にかかっとる。もう信心は止どまっとる。そこで私共が改めてここに思わなければならないことはです、いうならばそういう生き生きとしたおかげの進展が見れないならば、無いならば、これは私の信心も、これは生きた信心じゃないなとまず思うてね、次の信心に進めていく、いうならば身構えというものを作らなければいけないということでございます。どうぞ。